こんにちは ユウジです。

1月17日の今日、阪神淡路大震災から24年が経ちました。阪神淡路大震災は兵庫県南部を震源とした直下型地震で、神戸市内を中心に阪神間地域、淡路島などでは甚大な被害が発生しました。Wikipediaの情報によると、死者6432人、行方不明者3人、負傷者43,792人、被害総額およそ10兆円という被害であったようです。

 

多くの人々が寝ている早朝5:46に地震が発生したということで、避難できずに犠牲になった人は多かったようです。当時、タンスなどの下敷きになる圧死が大変多く出たという情報もあります。また、冬場で朝ということもあり石油ストーブやガスコンロからの引火による火災も被害を拡大する要因となりました。

神戸市長田区、兵庫区などでは、民家が密集していたこともあって火がどんどん拡大していき非常に大規模な火災に見舞われたということは、報道によってクローズアップされてきました。上空から撮影された写真や映像で火災の酷さが鮮明に記録されています。空襲による焼け野原のような状況だったということが記録から読み取ることが出来ます。

 

私は当時まだこの世に生まれていなかったため、「〜だったようです。」という表現になりますが、その当時の惨状については様々な話を聞くことによって大きな出来事だったということは想像できます。 今回、当時の状況について一人の方から事細かに伺うことができましたので皆様にもシェアします。シェアに関して了承いただいております。

その方(Sさん)には、この場でも感謝の意を述べさせていただきます。当時の記憶を教えてくださり、ありがとうございます。

 

Sさんは、当時小学1年生で兵庫県伊丹市にお住まいだったようです。ギリギリ覚えている世代という感じでしょうか。最初、「歳的にあんまり深くまでは記憶にないかもしれないかな」と失礼ながら半分期待していませんでしたが、かなり詳細に語っていただけましたので大変勉強になりました。私のように震災後に生まれた世代や、震災時に神戸や淡路島、阪神間地域と縁がなかった方にとっては新たな気づきがあるだろうと思って皆様にも共有します。

兵庫県伊丹市は伊丹空港(大阪国際空港)がある市です。空港の敷地は、半分伊丹市で、もう半分が大阪府豊中市、一部に大阪府池田市が入り、複数の市に跨っています。JAL側が伊丹市に位置します。大阪府と隣接する地域ということで、おそらく神戸・三宮よりも大阪・梅田の方が近いと思います。神戸市内からは少し離れた地域です。

当時小学1年生のSさんは、揺れた瞬間に起きて強い恐怖を感じて、今でもその当時のことをよく覚えているそうです。本棚などが倒れ、瓦が落下し、窓ガラスが割れるということを目にしたようです。本棚などが倒れるということは、テレビの地震発生時の映像でよく見てきましたが、窓ガラスが割れるということについては私はあまり見聞きしたことがありませんでした。「そりゃ割れるでしょ」と仰る方もいらっしゃるかもしれません。実際にそれは信じられないようなことではありません。 しかし、そのようなことを見聞きした経験がほぼないので、窓ガラスのフレームを歪ませるほどの強い負荷がかかる地震だったのだと改めて知ることができました。フレームが歪みそこに収まっている窓ガラスが急激に圧縮されるようなことになり、割れたということなのでしょう。東日本大震災や熊本地震で、窓ガラスの割れが印象に残らなかった要因には、構造の変化にもあるような気がします。当然、東日本大震災に関しては津波の印象が大きかったということもありますが...

 

Sさんの祖母の家は、古い木造家屋だったため1階が2階に押しつぶされる形で全壊したそうです。全壊の状況でもなんとか全員這い出ることができてご無事だったようです。東日本大震災などの報道(あれは今では津波がクローズアップされていますが、震災直後には全壊家屋の様子等も結構報じられていました。)でも見ましたし、中越地震のときにも見た記憶があります。2階だけになっていて1階が見えないというあれがSさんの祖母の家に起きていたんですね。

自慢するわけでは決してありませんが、私も私の親族やこれまでに出会った友人・知人等にも、被災者としての経験がありませんので「そうなんだ」とただただ驚くばかりです。

現在お読みくださっている皆さんのなかには、そのような経験をしたり、身近にあったという方もいらっしゃるかもしれません。そんなことわざわざ書くのと思われるかもしれませんが、どうかご理解ください。

 

Sさんによると、伊丹市では断水が約1ヶ月続いたそうです。大阪に隣接する市で断水被害まで起きていたとは知りませんでした。最寄りの小学校には自衛隊の給水車が2台程来ていたそうです。地域の人々は、ポリタンクや大きな鍋を持って行って水を貰っていたそうです。その水は飲み水としても使っていたとのことで、ライフラインの寸断の深刻さを痛感しました。メディアを通して知ることよりも、自分から直接その体験を聞くことの方がよりその深刻さが分かります。どちらであろうと自分が経験していないのだから同じでありますが、何かが違うような気がします。

 

Sさんの家では、井戸水が出ていたということでお風呂を沸かす余力があり、近所の人々にも入ってもらったりということもしていたようです。昨秋の西日本豪雨の時に水上ボートを持っていた人が、それを使って身の回りで困っている人を助けたということと似ていますね。

Sさんによると、伊丹市はこれでも被害が少なく、神戸市内はもっと酷かったと語っていました。これは恐らく実体験ではなく後になって得られた情報だと思いますが、当時の神戸市内は防火水槽が少なく、水道管の水を使う消火栓に頼っていたそうです。揺れで水道管が至る所で破裂を起こしてしまい消防車が来ても放水することが困難だったそうです。延焼にはもうお手上げという状況になってしまい長田区などでは街の多くを焼失してしまいました。

 

以上Sさんによる震災の記憶でした。

阪神淡路大震災を機に防災対策の見直しや強化がかなり進んだということを私はよく耳にします。建物の耐震性向上などで24年前に比べて全国的に安全性が高まってきたのではないかと思います。東日本大震災では津波が想像を絶する大きな被害をもたらしましたので、今後は津波対策に注目が高まってるのではないかと思います。防災意識を高めることにより、将来起きるとされる南海トラフ巨大地震などの被害も最小限に抑えていかなければなりません。天災は忘れた頃にやってきますので、日頃からの備えが大切です。

 

今日は1月17日ということで神戸に行ってきましたので、その様子を写真を交えながら皆さんにお伝えします。観光も兼ねて訪れましたので、震災に関連することのみを書いていきます。観光については、別記事に書きますので、そちらをご覧ください。(記事完成後にリンクを付けてここで紹介します。)

こちらは阪急三宮駅前です。建設中の建物は阪急ビル東館です。以前は5階建てのモダンなビルでしたが、阪神淡路大震災で大きなダメージを受けてすぐに解体されました。以後、仮設でこれまで3階まで?(ほとんど行ったことがないので記憶がありません。)のビルが立っていましたが、2016年になってやっと本腰を入れて復旧させることになりました。2021年までに29階建てのビルがここに建つようです。震災以前に見られたモダンな雰囲気を少し取り入れるデザインが計画され、神戸市民にとって過去のシンボルが再び蘇るような形となるため喜ばしいと思う方も多そうです。

JR三ノ宮駅前にある防火水槽です。阪神淡路大震災の経験から防火水槽が増えてきているのでしょうか? 詳しくは分かりませんが、Sさんのお話を聞くとこの存在に安心感がありますね。

 

神戸市役所の様子です。今日は震災の日ということで弔意を表す半旗となっています。普通は一番上まで挙げますが、少し下に下がっていることが分かります。これを見て今日が1月17日で震災の日なんだなと実感しました。

市役所以外の施設も多くがこのように半旗になっていました。

 

東遊園地では慰霊と復興のモニュメントとして1.17のつどいが行われていました。

東遊園地に向かって歩いていると、緊急速報が鳴りました。事前に神戸市内で訓練のアラートを行うということを知っていましたので、驚くことはありませんでした。10時3分に神戸市内にある全携帯に通知することになっており、私のスマホも正常に機能しました。

 

東遊園地に入るとこのようなプレートを掲げた警備員の姿がみられました。

「カメラによる写真撮影はご遺族への配慮をお願いします。」

竹灯籠が並んでいる光景や犠牲者の名前が刻まれた施設がありましたが、ご遺族への配慮を考えると撮影は不適切であるだろうと思い、そういったところに対してはカメラを向けませんでした。報道機関は撮影していますが、私個人が撮影することに関してはあまり善くないのではないかと思いました。それらは、各種メディアをご覧ください。

このように当時の記憶を伝えるブースが設置されていました。震災の状況を伝える各種資料や映像がありました。

東日本大震災の津波を伝えるものも設置されていました。これは各メディアの撮影用の足場の有効利用ということなのでしょうが、津波の恐ろしさを伝えてくれて素晴らしいなと思いました。10mを超える津波が町を襲ったということがどれだけ恐ろしいことだったのかを伝えています。

 

こちらはメリケンパークに残された震災の爪痕です。港湾がこれだけグチャグチャになったのですね。

阪神高速はなぎ倒され、阪神電車・阪急電車・JR・新幹線などは多くの箇所で高架が崩壊したりという風に、陸路の多くは寸断されました。そこで全力で救援の力を振り絞ったのは、港湾だったようです。港湾もひどい状況ではあるものの、早急の救援には船で届けるしかありません。日本各地から救援物資が神戸港に運ばれ、神戸の復旧・復興を支えたということが書かれていました。

今回、神戸に足を運んでみて色々と感じるものがありました。実地見聞ということがやはりシッカリと理解する上で大切だと感じた一日でした。震災関連を見た後に観光もしていますので、別の記事でそのことを書いていきますね。今の神戸の街を見て思ったこと等を書いていきますので乞うご期待ください。当サイトの訪問者で神戸の方も結構いらっしゃることを知っています。神戸の皆様にもご満足いただけるように情報を発信していけたらと思います。

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