こんにちは 山田裕司です。

 

2011年3月11日、東日本は未曾有の大震災に見舞われました。

東日本大震災(正式名 : 東北地方太平洋沖地震)です。

誰も経験したことがない揺れが長時間に渡って日本列島の広範囲で観測されました。宮城県沖が震源であるにも関わらず、数百キロ離れた東京でも震度5弱〜6弱程度の揺れが観測されました。知り合いからは、遠く離れた大阪や神戸でも揺れを感じたという声も聞きました。その後、東北地方の沿岸では津波が押し寄せ、地域の人々の財産・命を丸呑みしていきました。

今日、あれから8年が経過しました。

 

 

皆さんは、8年前のあの午後2時46分に何をしていましたか?

 

私はあの日、東京にいました。

その当時、私は中学一年生でした。6時間目の授業を受けているときに地震を体験しました。

その日の6時間目の授業は、”美術”でした。その日最後の授業でした。

他の授業は全て記憶にありません。私と同級生の人も、多くはそうだと思います。その時の授業だけは鮮明に残っているのではないでしょうか。

 

美術の授業で何をしていたかというと、粘土で生徒それぞれが果物などを作っていました。

私がその時作っていたのは、林檎でした。 Apple

その時間の私は、林檎の写真を元に粘土を林檎の形に形成していました。

 

私は、美術室の最後部の左と背後に窓がある場所に座って作業をしていました。

図にするとこんな感じです。

私の背後の窓は東側、左側の窓は南側となっています。日本の標準的な教室と同じで左側の窓から日光が差し込むという構造になっています。

前の席の男子は、その前の男子と喋りたいということで、「替われ」と言われて本来の席と違う席に私は座っていました。中一の一学期の二回目の美術の授業くらいからずっとこの状態でした。3月11日は、この状況の終盤といったところでした。

中二になる4月からは、クラス替えがあるからです。前の二人には色々と抑圧されてきましたが(今でも二度と会いたくない)、幸いそれ以後の2年間はクラスが一緒になることはありませんでした。

 

そういう環境のなかで、私は美術室で地震を体験しました。

14:46 地震発生

仙台沖が震源なので、数分遅れて東京に揺れが到達しました。東京では、14:50頃に揺れ出しました。そのとき時計を見ていたので鮮明に覚えています。分針は10近くを指していました。9の近くではありませんでした。

 

揺れは最初のほんの一瞬は小さなものでした。

どんどん爆発的に大きくなっていきました。この表現は全く大げさではありません。

校舎全体が轟音を轟かせながら揺れていました。

先ほどお見せした図の通り私は、南と東の外の様子が見渡せる場所にいました。こんな揺れは珍しいという気持ちが大きく(不謹慎であるかもしれませんが、当時の私の感情です。)、窓の外を立って眺めていました。中学校に隣接する区営の運動場にある太い柱を持つ照明が大きく左右にグラグラと揺れていたのは衝撃的でした。電信柱に毛が生えたような太さではなく、風力発電の支柱並みの太さです。

「あんなものが揺れるなんて...」と衝撃を受けました。震度3程度の小さな地震なら全く動じないグラウンド照明が、地面に大きく振り回されていました。

 

私は、1分程度立ち尽くしていました。

周りの人は全員が先生の指示に従って机の下に身を収めているなか、私は逆らっていました。「こんなの見なければ損する」

今思えば凄く不謹慎なことですが、当時の私はそういう風に気持ちが動きました。

 

そのときは、

東北が震源であるということ

津波が東北地方を中心に襲っていくということ

多数の犠牲者が出ること

 

こんな情報なんて全くありませんから、ただ非日常を味わっていたという感じになります。

東北地方を中心に被害に遭われた多くの方には申し訳ないですが、なにも知らずにただ地面が揺れているという状況下では、遊園地のアトラクションに近い感情でありました。

 

1分ほど立ち尽くしていると、美術の先生が「机の下に入っておいて」と苦笑いを浮かべながら私の元に来てお願いされました。「山田、机の下に入れよ!」と語気を荒げたような感じではありませんでした。「流石に入っておいて」って感じでしたね。

その美術の先生は、揺れが強まると即座に教室の引き戸を開けていました。強い地震の場合、建物が歪んでドアが開かなくなるということがありますので、大事なことです。

 

1分近く見てればもう十分と思い、従いました。

その後強まりもせず、弱まりもせずに強めの揺れが数分続きました。

女子は、「キャー」と叫んだり、泣いたりしている人が多くいました。

揺れが収まり、1分近く外の景色や教室の様子を見ている私に対して、ある女子から「私たちの様子を面白がっているんだね...」という風に言われました。

何も言葉は返しませんでしたが、完全に違うとは言えませんでした。

ひどい性格だと思われて仕方ありません。まあ、女子に何を言われようと別にどうでも良いんですがね。好みの女子なんて誰一人いませんでしたし(^ ^) 多感な時期なので、他の男子ならひどく傷つくのでしょうが、私はなにも感じませんでしたね。

 

15:10に授業が終わり、自分たちの教室に戻ってホームルーム

しばらくして担任の先生が教室に入り、「さっきの地震の震源は宮城で、阪神淡路大震災並みの地震だったらしい」という風に話し出しました。そこで初めて地震についての情報を得ました。地震発生から30分くらい経ってからのことです。

今の中学生は、スマホ持ち込み解禁の学校が増えてきていて即座に情報を知ることができると思いますが、私の頃は違いましたね。

 

「これから余震があるだろうから注意して」という風に多分言われてショートホームルームは終わりました。その後下校しました。

私の学校は、親に迎えにきてもらうということ等はしていませんでした。普段通り生徒を帰していました。下校中に渡る踏切がずっと鳴って塞がっていました。地震発生時に緊急停車したのが踏切直前だったということでずっと遮断機が降りていました。

幸い近くの駅が橋上駅舎(駅舎が線路の上を跨ぐ構造)である為、そっちを通って線路を通り抜けました。街は踏切以外はいつも通りでした。

しかし、空の色が人々の不安を表すかのように薄暗い色に変わっていました。その日は地震前までは晴れでしたが、地震のあとはずっと曇っていました。雨がふるというわけではなく、ただ薄暗い雲に覆われていました。

 

あの時ほど、人々の心情が空に反映されているのを見たのはないですね。

科学的には全然関係ないのでしょうが、私にはそう見えました。

 

 

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事